ぼくのなつやすみの「面白さ」

ずーっと「ぼくのなつやすみ2」をやっておりました。いや、時間が進むのをゆっくりにしたら終わるまで16時間近くかかってしまいまして。

このゲームをやってみて思うのは、ゲームと一口にいってもその切り口にはいろいろあるんだなあということです。いや、いまさらそんなこと言ってどうすんだって話ではあるんですが、切り口といってもいろいろあるわけでして。

前作「ぼくのなつやすみ」はなんか面白そうって理由で私も買ったんですが、これにはちょっとした「違和感」がオマケみたいについてたんですね。

ぼくのなつやすみ」はゲームとしての体裁はきちんと整えられてます。目的らしい目的はないけれども、ストーリーもしっかりあるし、昆虫採集や凧あげ、魚釣りなんかのゲーム内ゲームみたいなものもある。それでいて、ちょっと昔の「古きよき」日本の夏休みのを表現しようとする試みがなされてます。

じゃあなんで「違和感」なのかといえば、それは「ぼくのなつやすみ」が誰をターゲットにしたゲームなのか、という話になります。このゲームは他のゲームとはターゲットを違えているのではないかと思うんですね。
 「ぼくのなつやすみ」のパッケージ裏には「大人になってしまった、あなたに…」と書かれてますが、これがそのことを如実にあらわしています。つまりこのゲームをターゲットにしてるのは夏休みには外を駆け回って遊んでいたような人なんですね。部屋にこもってゲーム三昧だった人じゃない。言い換えれば「ぼくのなつやすみ」のターゲットは「ゲームをする人」じゃなくて「ゲームをしない人」なのではないかということです。

これって、実はけっこう大切な違いなんじゃなかろうか。

ゲームが「ゲームをする人」のものだけであれば、それはゲームなるものが閉じた世界になっているということを意味します。そこでゲームを遊ぶのはゲーム好きな人だけであって、それは一般大衆とは少し違うんですね。「世の中には二種類の人間がいる。ゲームをする人としない人だ」という二分論であらわされるような世界の捉え方です。

「ゲームをする人」のためのゲームというのは、段階を踏むに連れてより深く、濃くなっていきます。「マニア化」とでも言ったらいいんでしょうか。当然それ自体は悪いことじゃないです。どんなに一般化されたものでも最初はマニア向けのものということだってある。スーパーファミコンが発表された当時は「ボタンがこんなに多いと使いこなせない」って言われましたが、今ボタンの多さに文句をつける人ってあまりいないですね。

今まで数知れず生み出されてきたゲームには、「ゲームをする人のためのゲーム」という面が少なからずあったんじゃないかという気がします。私がそのことを感じるのは格闘ゲームあたりかな。とにかくやってることがやたら高度で、初心者が楽しもうと思ったらそこに行き着くまでにはかなり「修行」をつまなきゃならない。少なくとも「ゲームをしない人」がやって面白いと思うかといえば、それはノーでしょう。

「マニア化」は「ゲームをしない人」との隔絶をも同時にもたらすものなんじゃないかと思うんですよね。どんな分野にしてもそうなんですが、マニア向けのものはとにかくわかりにくいです。中パンチを小パンチでキャンセルしてそこからさらに必殺技で6Hitコンボ!とか言われたってさっぱりわかんねっすよ。専門用語や独自の文法ができてくるようになるとかなりマニア化が進んでると思うんですが。

で、その隔絶はあらぬ偏見や誤解の原因になるんじゃないか。つい先日も「毎日2時間以上は大脳活動に影響 日大教授が発表(毎日新聞)」ってのがありまして、この研究そのものは偏見や誤解とはちょっと違うところに位置するものですが、これをPTAなんかが大喜びで引用するのが目に見えるんですよね。だから子供にゲームをさせちゃーならんのだ!という論法は「だから」のかかる部分を変えつつもファミコン時代からずーっと続いている由緒あるもので、またですかって気もするんですが。

で、映画や小説に対してこういう研究がなされたことってありますか?どれをとってもすべてマイナス面の強調する研究ばかりされているのはなぜですか?っつー気がするのですよ。なんか負のバイアスがかかっているのではあるまいかと。しかもゲームに関してはこの手の話がやたら多い。映画やTVなんかだと描写、表現に関した議論になるんですが、ゲームの場合はそういう話じゃなくて、ゲームそのものが槍玉にあげられるのが他の分野とちょっと違う特徴になってます。

そこにはいろんな原因があるでしょう。が、そのひとつとして無理解ってものもやっぱりあると思います。多分子供にゲームをさせちゃならんと言う人はゲームはやらないでしょう。これはもう実際にゲームをやってみて少しでもゲームなるものをわかってもらうほかないんですが、そういう「ゲームをしない人」たちに遊んでもらうゲームって、実はそんなになかったんじゃないか。普段はゲームをしないけど「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」はやるって人はけっこういるんですけど、これもちょっと違う。面白いことは面白いんだけど、それはあくまでゲームの中で完結しちゃうドラマとしての面白さにすぎないんですよね。こういうのはなかなか「ゲームをしない人」には理解できないんじゃないかなぁ。それなら映画見るか家でTVでも見ますってことになっちゃう。面白いと感じられないものをやってみようって人はあんまりいないですよ。

で、ようやく「ぼくのなつやすみ」に話が戻ってくるんですが。

このゲームにゲームに対する偏見や誤解を取り除こうって意図があるとはぜんぜん思いません。そんなこと言ったら多分作者の方がひっくりかえっちゃうでしょう。遊んでいる間だけ自分が子供だったころのノスタルジーに浸って、アルバムを見たような心地よさを感じる。そういうゲームです。

そこで感じる心地よさってのは、ゲームの中だけではなくそれぞれの心の中にある琴線を刺激するような面白さをもたらすものだと思うんですよね。「ゲームの中で完結する楽しさ」になぞらえて「自分の中で完結する楽しさ」と言ってもいい。深さや味わいという点から言えば後者の方がより印象深いものになるでしょう。もしかすると優れた小説や映画に触れて感じるものにこれは少し近いんじゃないか。よい作品というのは作品自体が面白いだけじゃなく、触れた人の心にも訴えかけるなにかを持っているものです。単なるドラマツルギーを超えた面白さがそこにはある。「ぼくのなつやすみ」にはその片鱗が少し見えるような気がしたわけです。

ぼくのなつやすみ」を遊んでみて、「ゲームをしない人」たちが遊んで楽しめる可能性のあるゲームってこういうのなんじゃないかと感じたんですが、それは今までのゲームとは違った「面白さ」がこのゲームの中にあったからなんじゃないかな。私が「違和感」を感じたのもそのせいなのかもしれないですが、その「違和感」こそがこのゲームの大きな特徴になっていると思います。

こういう多様な「面白さ」を感じさせてくれる作品がどんどん出てくれると、ゲームが今よりももっと一般的になることができると思います。そうすればいつしか映画なんかと並ぶメディアのひとつになりうるかもしれません。そこまで行き着いてしまえば、『子供時代はゲームではなく、外で友達と遊ぶことが一番だ』っていう紋切りな批判は出てこなくなるでしょうね。さらに一歩突っ込んだ表現、描写に関する議論ってのはなくならないでしょうが、それは既存のメディアにしても同じことです。

しかしそうなるとゲームを作る人ってのはずいぶんたくさんの引き出しをもってなきゃいけないですね。作者の名前が本当に重要になるのは、実はこれからが本番なのかも。

で、「ぼくのなつやすみ2」ですけど16時間ってのはやっぱり長いです。「ゆっくり」で遊ぶのはよっぽど時間があるときにしときましょう。